朝ごはんを食べていてふと思った◎
お茶碗に、おそらく
桜が描いてあった◎
もう6月なのにな
と◎
その後銀行へ行くついでに
お昼ごはんのために魚屋に行き
魚を見ていた◎
先週までは並んでなかった
飛び魚が【旬!】っていうシールを付けて
売られていた◎
帰って
飛び魚を捌いて
白いご飯の上に乗せて
食べた◎
テレビをつけた
情報番組で
『今が旬なお店の紹介です!』と
キャスターが新しく出来たお店でリポートしていた◎
その後も
旬なタレント
の
旬な話題
とテレビは流し続けていた◎
テレビの流す【旬】という言葉に
何か違和感を感じた◎
僕の中でその【旬】って言葉は
常に季節という感覚と強く結びついていて
毎年やってきて
この年にもなれば
幼い頃のその季節を懐古したり
つまりは
なんだか懐かしさと、その年年の
フレッシュな新しさが同居している感覚だったのに
『あぁ、今年も竹の子が出る時期なんだな』
と
『今年の新竹の子はどれどれ、どんなだい?』
という、ね
毎年のことなのに
毎年新鮮っていうものね◎
実家にいる時は
我が家の掛け軸などを
季節によって親が変えていた◎
なんて書いてあるか分からないような文字なのに
『これは春の言葉だから』と
『この魚の絵は冬の魚の絵だから』と
何か、安心感があった◎
テレビの流す【旬】という言葉に
なにかしらあやふやな危なっかしさを感じてしまった◎
実家で感じたり
飛び魚を発見して感じたりする【旬】
テレビのその【旬】
どちらもいずれ、旬の時期は過ぎ行く◎
でも前者は、旬が去っていくのも
また、一興であって、名残惜しさが
来年への楽しみとなる◎
後者の旬は、一度過ぎ行けば
次はいつそれが巡ってくるのか
分からない
もしかするともう二度と来ないのかもしれない
今年の春は
桜の茶碗にずいぶん良くしてもらった◎
サイズや形、手に持った感じなど
相当使い勝手がいいけれど
いつでもなんでも
使い続けて
割れたら、そこで新しいものに交換
ではなく
ここは敢えてちょっとしまってみようかな
とも思う◎
せっかくの桜、大切にしまって
来年の楽しみにするのだ◎
さて、飛び魚にピッタリな
お茶碗様でも探しに、今年の初夏は過ごそうか◎