サウナというものが嫌いだった。いや、苦手だったが正解か。
辛いものは好きだけど汗が止まらなくなるからつらい。というようなものではなく単純に熱くて辛いし、上がった時の水風呂なんて修行のようなものとしか感じれずサウナに入る意味が分からない。
数えるほどしか経験がなかったがその少ない経験だけで十分たりるほどに苦手意識を持っていた。合う人と合わない人が居るのだったら僕は間違い無く後者。
サウナが合わない人間だ。暑いの苦手!
が、ここにきてまたサウナに挑戦してしまった。さらに言うとちょっと楽しいと思い始めてしまった。
なぜかと言えばとてもミーハーなのだが身の回りにサウナの情報があふれてきたからだ。
サウナ自体は元々体験していたものと大差はないと思うのだが、サウナの楽しみ方を上手に伝える人が増えてきたといったところか。
「ととのう」というワードがまさにそれなのかもしれない。
サウナは何度か挑戦したものの「ととのう」といった状態を体験していなかったのかもしくは体験していたとしても記憶に残らないようなことだったのか。
とにかく、それを体験してみたくてまた挑戦という一歩を踏み出したのだ。結果的に、なんとなくこれが”ととのう”ってことなのかな、と少しだけ分かったような気になれた。
そのととのった状態を目指すために苦手なサウナに挑戦し、苦手な水風呂にも入った。
なんでそんなことができてしまったのだろう。というのは今不思議だと感じているのはサウナでととのった事実よりも、苦手意識を持っていたサウナに再挑戦し、ちょっと楽しいところまで来てしまったという2つの事実だということだ。
もしかしたらそれは分解していけば日本酒に苦手意識を持っている人に、お酒を飲むこと自体の楽しみ方をもう一度体験してもらえる。そんなことに繋がるキーとなるものができるかもしれない。
再挑戦。なぜそんなことをしてしまったのか。いや、なぜ再挑戦しようという気持ちが生まれたのか。
これははっきり言って身の回りで「サウナは楽しい」と伝える人や情報が明らかに増えてきたからだ。そして楽しみ方を分かりやすくレクチャーしてくれる、いわば初心者向けの様々なガイドがそこらへんに溢れていたからだ。
そしてその楽しみの一つのゴールとして「ととのう」という言葉が用意されたことも大きい。苦手意識を持っていた僕は、きっとまだ「ととのう」という体験をしていなかった。もしくは体験していたかもしれないけれどそれがその状態だと思えていなかった。だからきっとサウナ=苦手となったままでこれまで来てしまっていたのだと自分で自分を理屈付けて納得させた。
そしてその再挑戦に挑んだ際に分かりやすいレクチャーで得た知識を全うしてみたら、皆が言っている「ととのう」という体験ができたっぽいのだ。おそらくこのふわふわしたようなこの感覚が「ととのう」ということなのだろうと、体験した。
その体験よりも「これがととのうってことか!」という確認がとれたということに喜びを感じていた。「ととのう」という経験をしたことがある側になれた、その体験の喜びこそがサウナ=楽しいになった瞬間だった。
さて、これを「お酒を飲む」ということに応用していくとどうなるのだろう。お酒を飲むこと自体が健康に害だとされて久しいけれど、そこは目を瞑って進める。だってサウナだって一歩間違えれば命の危険もあるし、どうしたって体質的に合わない人もいるだろう。なんにだって側面はあるのだ。
お酒の楽しみ方を上手に分かりやすく伝える人や情報を増やす。味やスペックなどの情報ではなく、やはり楽しく酔っぱらうことの体験に注目して伝える。酔うにも種類があってひどく泥酔することを楽しさのゴールにするのはコンプラ的にも実際の健康面からも脆すぎる。ほろ酔いぐらいの会話が止まらなくなるようなあのレベルが一番いいのだろう。「ととのう」に匹敵するようなその体験が分かりやすくキャッチーな言葉も必要だ。どこかのラーメン屋で「うちのラーメンは一回だけだと分かりません、とにかく三回食べてみてください!そうすれば必ずハマります!」という文句を見かけたことがある。かのごとく「とにかく3回チャレンジしてみてください、そうすればトリコにさせます!」みたいなものもいいかもしれない。
お酒を飲んで楽しい!っていうことを溢れさせ、まずはチャレンジででも飲んでもらって、実際に「〇〇〇(キーワード未定)」という体験をしてもらって、「お酒を飲むことは楽しい!っていうのが分かりました!!」っていう人を増やす。
コロナの2年でお酒を飲まなくなった人も多いと思う。今こそお酒を飲むことの楽しさをもう一度普及させないとこの先こんなに素晴らしい文化を無くしかねない。お酒を飲んで楽しく酔う、それを分かりやすく嚙み砕き伝えるにはどうしたらいいのか、誰かとそんな話をしながらずるずると
飲みたい。