前回の話
16年という歳月はお婆ちゃんの記憶の中から、
自分という存在をスッカリ消してしまっていた。
トイレは自分で行けるのがありがたいこととか、
昔はよく春先近くで山菜を採ったりしたこととか、
いろんな話を聞きながらウンウンとうなずいてた。
ふとうなずきながら込み上げてくるものがあって、
笑顔を作りながら必死にそれをこらえた。
隣には同じようにうなずきながら涙をこらえてる様子の嫁さんがいた。
あぁ、連れてきて良かったなと。そう思った。
きっと、お婆ちゃんは自分が誰なのか分からないだろうし、
一緒にいる女性が誰かなんてさらに分からないだろう。
それでもニコニコしながらゆっくりとした口調で話してくれる。
話しながらヨーグルトを少し食べ、おかんが用意した蕎麦を手に取った。
次の瞬間、
「ズズズッ」
94歳のお婆ちゃんは音を立てながら、自分一人の力でその蕎麦をペロっと食べてしまった。
あまりの普通な感じに拍子抜けというか、安心したというか、
その“普通な”姿が、何とも言えない悲しさに支配されつつあった自分を救ってくれた。
もしかしたら隣にいた嫁さんも同じ感覚だったかもしれない。
昔は、正月や夏など年に数回は親戚一同集まって一緒にバーベキューをしたりした。
そんな思い出ももうお婆ちゃんの中には残ってないのかと思うと、
寂しくなったりするけど、お婆ちゃんに直接会ったことで、
人が老いていくこと、時間の流れがもたらす様々な変化、
それがどういうことなのか、少しだけ分かった気がする。
それだけでも帰ってきて良かったと思える帰省だった。
もう一人のお婆ちゃん、おとんのおかんは自分が高校の時に亡くなった。
当時お婆ちゃんが入院していた病院へ、
今と同じようにおかんがしばしば通ってた。
思春期の自分がどんな感覚だったか、当時のことなんて分からないけど、
何故かお婆ちゃんに会いに行くという行為を自ら望んでしなかった。
もしかしたら、どんどん弱っていくお婆ちゃんの姿を見たくなかったのかもしれない。
高1になった1996年の春先、おとんのおかんは亡くなった。
自分から会いに行かなかったことを後悔した。
もしかしたら、それがずっと心に残ってるのかもしれない。
今回の帰省は、その過去の後悔が突き動かしたもの、のような気がする。
おとんのおかんが亡くなった19年前は、
「会いたい」という感情が素直に働かなかった。
19年経った今、「会いたい」と素直に思い、行動する自分がいる。
時間の流れは自分をここまで変えた。
自然なことではあるけれど、16年という歳月はお婆ちゃんを変えた。
それと同時に自分も変わっているんだと、そう思える帰省だった。
悲しい現実を前に、自分の意志でもって受け入れることができる
高校生の時から変わった自分を再確認できた旅だった。
続く