なぜ青二才なのか【1】

生きていくことは足し算だよな◎
常々僕が思っていることですが

昨日会った人

これまでに一緒に飲んだ人

先週見た風景

今朝方見た桜の花

物や人や感情全てが自分の人生に足されて今があると思うのです◎
会わなければ良かった人なんて誰もいず

無ければよかったことなんて何もないのです◎

そう思っている僕と青二才と言うお店の関係を話して
やっと
なぜ、青二才なのか?

と言うことに答えることができる気がするのです◎
きっと◎

まぁ、全く独断の僕的

青二才の解釈ですが◎

なので、少し
これまでのことを書かせてください◎

数日に渡りの長文になりそうです◎

ご興味ある方のみどうぞ◎

僕、小椋道太

1980年1月に岐阜県の恵那市と言うところに生れます◎

父、母、妹二人の5人家族で
岐阜県の中でも田舎の恵那市、の中でも田舎の地区で育ちます◎

そう、大自然と両親の愛にまみれてすくすくと◎

学校までは徒歩で毎日片道一時間、学校の近所に住んでいる子が

ファミコンで遊んでいるようなのを横目に見ながら

お金は無い家庭だったけど、無いなら無いなりに山に入って遊んだり

川で泳いで遊んだり、と創造的に遊んでいました◎
そういう創造的なことは僕の父親が一番得意とする遊びでした◎
貧しい家庭を脱却すべく、色んな人の力を借り

父親が恵那市の中心部に料理のお店を建てたのが

小学校五年生の時◎
恵那市の中の田舎から

恵那市の中心部と言う

東京の人にとっては、大皿の上に胡麻が一粒だけ乗っているか
二粒乗っているのかぐらいの小さなことに過ぎませんが

僕ら家族にとっては大転機でした◎
今まで、父親の働く姿なんてそうそう見たこと無かったのに

その日以降、住居が新しいお店の二階部分だったため

毎日父親の働く姿を見たのです◎
カウンターの中で楽しそうに、いつも楽しそうに仕事をしている父を見て

あ、僕もいずれこの仕事がしたいな、なんてぼんやりと思うのは自然なことでした◎
お酒が好きで

人が好きな父親の周りには

いつも多くの人が集ってくれ

お店も順風満帆でした◎
僕が父親の母校である高校に入学することになる数日前
父は突然、交通事故で他界しました。
新聞配達をしていた僕と妹が

早朝にそのバイトから帰ってきて数分後

普段なら鳴るような時間ではないはずの電話が鳴り

その電話に出た妹が電話口で

呼吸が出来ないほど無き潰れた瞬間は今でも覚えていますが

その後は真っ白です

偶然、同じ車に乗り合わせていたのに無事であった母親と

病院で会った時、息をしていない父親の姿を見た時

町の料理店の店主の告別式に1000人もの人が来てくれた時

その告別式で母親が気丈な言葉を述べた時

よく泣いた数日

記憶の全てが断片的ですが最終的に

思ったのは、

父親が居ない家庭で男一人、俺が何とかしなきゃ

と言うのと

こんなに辛いのに、今日もいい天気過ぎてバカヤロー

ってことでした◎

それ以降、僕はずっと今でも父親の背中を追い続けている気がします。
いつか、父親よりも大きな男になる!って

そんな僕の思いもきっと母の強い思いに比べたら
微々たる物で、

今までほとんど経営とかに携わってこなかった母親が
自分の睡眠時間や、欲しいものや、プライドなどを
全てなげうって、

子供を育てるためだけに

父親が始めたそのお店を繋げていくことを決めたのです
子供をちゃんと育て上げる

ってことが最大のモチベーションだった(と言っている)母親は

いつも僕らが眠る頃はまだ立ち仕事をしていて

夜中に起きれば事務所で帳簿をつけていて

朝、新聞配達に起きると事務所の床でそのまま寝ていたり
そんな母親が自分の人生をすり減らした対価で

兄妹三人とも何不自由なく高校にも行かせてもらいました◎

この高校で、今の青二才の相方である神谷と出会います◎
つづく

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